つボイノリオ物語

特別付録・つボイノリオ物語
(このページは竹内義和ファンクラブ主催のイベントで配布された冊子からつボイノリオ氏の掲載許可のもと、掲載しているものです。したがってこのページについては無断で複製したり、転載したりしないでください)
 彼は昭和二十四年に生まれ、まさに団塊の世代である。

保育園から大学、就職まで常に狭き門であり、すし詰め教室などに象徴される ように、彼の一生は、常に競争率の高い人生に違いない。
だから人生の最後に置いても、火葬場の前には長蛇の列が出来、順番待ちの光景 が想像される。

 彼が今の職業に入ったのは全くの偶然であると言っていい。
彼は家族の意見もあり、大学卒業間際まで堅気のサラリーマンになるつもりで あった。

もっとも、彼は中学生の時から、アメリカン・ポップスに親しみ、また親戚の 叔父さんに貰ったウクレレに夢中になり、やがてそれは高校でギターを覚え、 バンド活動をするきっかけとなるのである。

その当時放送界は、ミュージシャンがDJを担当する傾向にあった。
彼は高校、大学とバンド活動ををしていたので、ディレクターの目に止まり いきなりDJになってしまった。

 しかし、就職を断念してまで、また親の反対を押し切ってまでなった DJだったが、僅か5ヶ月で首になり、失業保険も何にもない、超一流の失業者に なる。
 事務所にも何処にも所属していないタレントにとって、この状況は致命的で あり、もはやこれまでかと思われたが、その後彼は不死鳥のようにまた放送界に 舞い戻ってくる。

彼の生涯の中で特筆すべき奇跡の内の一つである。
 その後、ヤングジャパンとか小沢音楽事務所とか六本木オフィスとか色々な 事務所にも所属するが、表面上の温和さとは裏腹に根が本来我侭なのか、どこも 長くは続かなかった。

「じっと我慢するくらいなら、健康保険やボーナスや身分保証もある サラリーマンになってたわい。」というのが、彼の口癖である。

 それでも、今日まで厳しいこの業界でやってこられたのは、周りの引き立て なども含めて、基本的に運のいい人生なのかも知れない。
彼のこの業界でのスタートは、深夜放送であったので彼はその手の番組を 担当している時が、一番生き生きとしている。

また、その時期は彼の放送人生の中で、もっとも長い位置を占めた。
 しかし、そんな彼にも転機が訪れた。62年の7月から、KBS京都の朝の ニュース番組「つボイノリオのおはようアドベンチャー」が始まった。

放送禁止歌手であり、深夜放送独特のエログロナンセンス専門のタレントでも あったつボイノリオに、そんな報道番組が出来るのであろうかと、周囲を ハラハラさせたが、5年も続いたことを見ると一定の評価は得たに違いない。

それに味をしめて、今や世界情勢や経済問題、政局の今後の予想まで、 事ある毎に周囲の物にこれみよがしに語りうるさがられている。

 そのおかげか、この秋からCBCで朝の情報生ワイド番組「つボイノリオの聴け ば聴くほど」が始まった。この番組にかける彼の意気込みは並々ならぬものがあ る。
 このように、彼の守備範囲は結構広範囲にわたっている。
元々好きであったポップス系の音楽の他、東洋医学、バイク、コンピューター など、彼の興味は尽きるところを知らない。

特に東洋医学などは鍼灸師の免許を取得しているし、バイクは狭き門である 大型免許を38歳で取得した。

コンピューターに関して言えば、実際にソフトを「日本ソフトバンク」、 ブラザー工業「タケル」等を通じて全国に向けて発売していた。
任天堂ファミコンのソフト開発の孫請けも続いている。

 要するに凝り性である。

 この20年、殆ど放送ギャラで喰いつないできたのも、奇跡その2であると いえる。

そんな経済状態の彼に、銀行がマンション購入のために35年ローンを 組んでくれたのは奇跡その3であろう。

残るは、富と名声である。この第四の奇跡は起こるだろうか。注目したい。
情報提供:剰余価値m子さん